山梨県立博物館の企画展「甲州食べもの紀行」

11月29日の朝日新聞の記事から

「肉食はタブー」に迫る 山梨県立博物館、企画展で検証
「明治以前の日本では動物の肉を食べなかった」。何となく抱いているそんな思いの検証に、山梨県立博物館で開催中の企画展「甲州食べもの紀行」が挑んでいる。記録が残りにくい日常の暮らしの解明は簡単でないが、探してみると、営々と肉食が続いてきた証拠は明白なようだ。
 「猿の肉を早く送ってほしい」。身延山に近い山間部の民家に伝わった手紙は江戸からの督促状だった。肉食がタブーだったとされる江戸時代だが、同じ家には猿皮を求める手紙も残っていた。
 江戸時代の料理書も展示。シカ、タヌキ、イヌなどの調理法が紹介されている。浮世絵には「山くじら」の看板がくっきりと浮かび、「薬食い」すると元気になるとの狂歌も。凶作に備えて動物や鳥の肉の塩漬けを蓄えることを勧める代官所の文書もある。
 「肉食はタブーだった」とのイメージは仏教とのかかわりで語られることが多い。7世紀、天武天皇時代の「肉食禁止令」は仏教思想によって殺生を禁じたものと解釈されることが多かった。日本で里山の緑が守られたのは、この禁令のおかげでヤギやヒツジが増えなかったからだといった主張もみられるほどだ。
 だが、この禁令が規制したのは牛、馬、犬など5種の動物だけで、それも季節限定だった。宮中の献立を調べた佐藤全敏・信州大准教授(日本古代史)によると、平安時代半ばまではシカやイノシシの肉料理が天皇の食卓に上がっていることが史料で確認できるという。シカとイノシシは平安時代に甲斐の特産品として記録されている。
 学芸員の植月学さんは県内各地で発掘された動物の骨を分析。時代、地域を問わず食用と判断できる骨が見つかった。「どの時代でも肉食が行われたことは明らか。ただ、毎日のように食卓に上るようになったのはごく近年のことですが」と総括した。
 同展は山梨の食文化の歴史を多様な視点からたどっている。山国・甲州での海産物の消費の実態に迫り、武田信玄の食卓を再現、郷土食ほうとうの来歴やブドウ栽培の由来など盛りだくさんだ。(渡辺延志)

企画展を開催中の山梨県立博物館については,この日記でも2006年3月14日のエントリーで触れたことがありますが,2005年に開館した比較的新しいところで,支配者層から見た歴史というよりも,民衆から見た歴史に焦点を強く当てるアナール学派的なユニークな博物館です。
肉食については,彦根藩が江戸時代に徳川将軍家や御三家に味噌漬けの牛肉を献上していたというのは有名な話です。イノシシを「山くじら」と呼びますし,兎を一羽,二羽と呼ぶのも肉食に関連しているともいわれています。
「日本の文化を大事に」などと言う人に限って,しばしば,その文化が明治以降や,支配者層の文化のみに言及される傾向が強いように感じるのですが,より実証的に,文化史を見ていくことが大事だと思います。その意味でも,山梨県立博物館の企画展の試みは感動もの,また,肉食の文化史に焦点を当てて記事とした朝日新聞社の渡辺記者も感動ものです。
肉食史については,こちらの本も併せてどうぞ。

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11月30日追記

アナール学派と直接関係はないですが,文化史がらみで。
構造人類学者クロード・レヴィストロース氏が2008年11月28日,満100歳の誕生日を迎えられたとのこと。おめでとうございます。
初めてレヴィストロースの本を読んだのが,もう25年ぐらい前。もう当時も学問的にはダントツの長老格でしたが(失礼ながら,今もご存命中だとは思っておりませんでした)。

2009年11月4日

11月4日の朝日新聞の記事から

「悲しき熱帯」レビストロース氏死去 「構造主義の父」
【パリ=国末憲人】20世紀を代表する思想家で文化人類学者のクロード・レビストロース氏が死去したと、AFP通信が3日、出版社の情報として伝えた。100歳。今月28日には101歳の誕生日を迎えるはずだった。
 同氏はパリ在住。メディアにはほとんど出ないが、健康で、旅行もしていたという。今年に入って一時健康を害したものの、頭脳の明敏さは相変わらずだったという。
 昨年11月に同氏が100歳の誕生日を迎えた際には、地元フランスのサルコジ大統領が訪問して敬意を表した。大統領府によると、現代社会の今後についてサルコジ大統領と意見を交わしたという。様々な記念行事も催された。
 レビストロース氏は構造主義の父といわれ、55年に発表した「悲しき熱帯」が人文社会科学全般に大きな影響を与えた。日本文化の愛好者としても知られる。
     ◇
 レビストロースさんは1908年、ベルギー生まれ。パリ大学で法学と哲学を学ぶ。35年、サンパウロ大学社会学教授として赴任したブラジルで現地のインディオ社会を調査する。その後アメリカでも教えるが、戦後フランスに戻り、59年、コレージュ・ド・フランス社会人類学講座の初代教授となった。
 ソシュール言語学などの影響を受けながら、世界各地の民族誌データや神話などの分析を踏まえ「親族の基本構造」(49年)、「構造人類学」(58年)、「野生の思考」(62年)などの著作を次々と発表。未開社会の婚姻形態の比較などをもとに、人類の社会、文化には共通する不変の基本構造があるとする「構造主義」は、学界に大きな衝撃を与えた。
 「野生」「未開」の中に現代文明の原型をみるその思想は、進歩主義的で人間の理性の働きを重視する近代思想・哲学の西欧中心主義と鋭く対立。人間の主体性を特に重視した当時の思想界の大潮流だったサルトル実存主義への批判は、大きな「事件」となった。
 その後も構造主義の考え方は、フーコーガタリら多くの思想家に影響を与え、20世紀ではマルクス主義と並ぶ最も大きな思想潮流として、現代まで引き継がれている。
 その業績によって、フランス以外の多くの国のアカデミーの会員に選ばれ、また親日家で何度も来日している。

文化人類学だけでなく,西洋思想界全体に影響を与えた巨人。
合掌。