輝くわが最晩年―老人アパートの扉を開ければ 他

イノセント・ゲリラの祝祭

イノセント・ゲリラの祝祭イノセント・ゲリラの祝祭
海堂 尊

宝島社 2008-11-07

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チームバチスタの栄光』の海堂尊の最新作(まだ発売されていませんが)。
追記です。読みました。海堂氏のこれまでの著作の中では中ぐらい。すなわち,まあ,お勧めです。
医学上の大きな場面はありませんし,「官僚」の書き方がコミカライズすぎるので,どうしても盛り上がらないのですが,医療と司法の抱える問題が体感できるものです。ついでながら,ライトノベルではありませんが(?),ライトノベルのように読めます。p48の次のような感じです。

ふと,目をあける。窓の外は夕闇。新幹線の二人掛けの席をひとりで占領し,ゆったり座っていた俺は,大きく伸びをした。その腕に何かがあたる。
ぐにゃ?
暗闇を背景にハーフミラーになった窓に,車両内部が映り込んでいる。そこにゴキブリの触覚が揺れているような幻視が見えた。・・・・
なぜコイツがいつの間にこんなところで,すやすや眠って俺の腕にぐにゅって,あああ,ぐにゅってしてそれで・・・・うわああ。

菌類のふしぎ―形とはたらきの驚異の多様性

菌類のふしぎ―形とはたらきの驚異の多様性 (国立科学博物館叢書 9)菌類のふしぎ―形とはたらきの驚異の多様性 (国立科学博物館叢書 9)
国立科学博物館

東海大学出版会 2008-09
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国立科学博物館の特別展「菌類のふしぎ」も見てみたい。
 なお,『もやしもん第7巻』は12月22日発売予定とのことです。

本当に困っている人のためのゴキブリ取扱説明書

本当に困っている人のためのゴキブリ取扱説明書―ドクター青木式・究極の退治マニュアル本当に困っている人のためのゴキブリ取扱説明書―ドクター青木式・究極の退治マニュアル
青木 皐

ダイヤモンド社 2002-04
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著者の青木氏は元(株)アペックス関西の職員。最近,医学博士(どこの大学かは書いてないので確認もとれないが)を肩書きとしてあげて,健康関係の本を書いているところがかなり怪しいが。

輝くわが最晩年―老人アパートの扉を開ければ

輝くわが最晩年―老人アパートの扉を開ければ (MINERVA21世紀福祉ライブラリー)輝くわが最晩年―老人アパートの扉を開ければ (MINERVA21世紀福祉ライブラリー)
雫石 とみ

ミネルヴァ書房 1997-07

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7月17日のエントリーで触れた葵会の話も。
著者は宮城県生まれ。両親の死後上京。結婚し三児の母となるが,戦争ですべてを失う。戦後は一時期上野の葵会で暮らす。
 昭和30年頃から文筆活動を始める。1988年「銀の雫文芸賞」をNHKの後援で設立。2003年に亡くなられています。
以下,「輝くわが最晩年―老人アパートの扉を開ければ」から葵町の記述を。

私は上野の"やま"の浮浪者だった。山内のあおい部落は番外地で浮浪者のメッカ。戦火で焼け出されて行き場のない人々が,それぞれに手作りで小屋を固定していた。私たちは女四人共同出資で,二坪の掘っ立て小屋を入手。私のほかは三人とも"地獄よりの使者"であった。夜な夜な公園や下界の歓楽街をさまよい,ヒロポンを売りさばいているのだ。注射をうちまくるのだ。浅草界隈まで足をのばしている。空が白みかけたころ,彼女らはしっかりと,夜露に濡れて帰る。私とはすれちがい。私はタバコのすいがら拾いである。朝が早いのだ。その日その日の口すぎかつかつである。ズルズルいついて十年。
下山のきっかけは眼病。住所不定では医者にかかれないのだ。お役所詣では初めてである。どこの役所でもひどいめにあった。振り出しは,池の端の生活相談所。公衆の面前で声を張り上げ,いきなりどなられた。脳バイと罵られた。・・・台東福祉のカウンターにもたった。はるばる目黒福祉にも足を運んだ。目黒更正寮がある。"やま"の仲間にしらされたのだ。両福祉とも面接は女のお役人様だった。お偉くて,いばりっぷりでは互角だった。私はお役所巡りで疲れ切った。
・・・・台東福祉より並木ケースワーカーの御来山。一説によると,私がしごかれたことを耳にしたらしい。すぐさま神吉寮(注:社会福祉法人東京援護協会が運営)収容。眼科医通院。・・・神吉寮はさながら人間の集散地。北海道から沖縄までの,あらゆる人間のルツボである。一時保護所なので,おおむね一,二泊か一週間が限度。行きくれて路頭に迷い,やっと塒をみつけたような,みなほっとした表情。従業員の姿勢は柔軟でいばったところがない。トータルな平穏ムードで気が休まる。
・・・治療が打ち切りになると,婦人保護の定着寮へ配転ときまった。それには上野の生活相談所を通過しなければならない。今度のお役人様の顔はちがっていたが,しかし前者に輪をかけたしごき。ワルだ,悪女だときめつけ,まるで罪人扱いだ。まったくのデッチあげ,根も葉もない赤嘘をこいてまで痛ぶる。不遜というか。権力者の表徴というか。尊大な気風軍国主義はどこのお役所にも温存されているが,とりわけ生活相談所は民政局の直轄なので,高級官僚ぶっているのかもしれない。・・・・
配転先の定着寮は荒川べりの聖水園。収容者は母子家族から七十老婆までおよそ一千名。私は入寮早々リンチの現場を目的。ひどい衝撃を受けた。殴る,蹴る,水をぶっかける。これが福祉を掲げた施設の招待。まさに濁水園だ。けだし鬼頭先生は聖水園第一の権力者だった。・・・この塀囲いの泥沼で五年間辛抱できたのは,働くこと,書くことが支柱になっていたからである。

看板に忠実なのは神吉寮だけであった。生活相談所にしろ,定着寮にしろ,看板に偽りあり。野宿の連中はそれをしり抜いている。脱走者らの口コミで,仲間中に知れ渡っている。冬になると,凍死者が出る。当局では浮浪者狩りを実施する。・・・野宿を好んでいる者はいないはずだが,彼らは捕まってほうりこまれてからでさえ脱走する。人間扱いされないからだ。屈辱感に耐えきれないのだ。彼らの心情が自分の体験で納得できる。お役人様方や施設の先生様方は,ご自分よりうわ手の権力者に対しては,メッキをつけて猫をかぶる。われわれ弱者に向かうときにはメッキどころか,地金を露出して虎に豹変。
・・・零落の身では故郷にも帰れない。娑婆の風は冷たい。身の置き所がなかった。追われ追われてようやく上野の"やま"にたどりついた。自分と同じような仲間がおおぜい。味方をみつけたようで,ほのかに通いあうものを感ずる。彼らはほとんどバタヤ稼業。たそがれ時になると,下界の歓楽街にはチカチカネオンが瞬きはじめる。彼らは"やま"をめざして帰る。途中で燃えそうなものを拾い集める。神田の青物市場で,痛みかけのくだものやくず野菜を拾える。あおい部落の店にいくと,"みそ"100グラムでも買える。グループごとに焚火がはじまる。火のまわりには缶がいくつも並んでいる。やかんや鍋の代用品である。燃し木をどしどしほうりこむ。俗に"ほいとの一くべ"という。火はぼうぼう燃えさかる。植え込みの中は真っ昼間の明るさだ。焚火を囲んで身の上ばなしがはずむ。いずれも暗黒の淵をころげまわってきたような,むごたらしい物語である。紙コップにみそ汁をすくい,じゃが芋の煮ころがしで空腹をみたす。ごろんと寝そべる。手拍子とりつつ鼻歌を唸る。どん底のパーティである。・・・夜はしだいにふけ渡る。グループの火はつぎつぎと消える。雑談もやみ,火が燃えつきて灰になると,コモをかぶせてからだをよせあってごろ寝。・・・雨が降ると,閉店を待って上野のれん街の深い庇の下が一夜のねぐら。老人ののたれ死にをしばしばみかける。青年の自殺。絶望のはてに死を選んだのだろう。「お役所や収容所がひどすぎるからだ」と彼らは涙を流す。

昭和三十年をピークにあおい部落の撤去問題が台頭した。彼らにとっては死活問題である。居住権を主張して部落は大ゆれにゆれた。動くには金がかかる。高い家賃は払えない。ポイントは相当金額の立退料と,都営住宅の優先入居である。住民代表は公園側と折衝した。公園側では住民側の要望を容認した。和解が成立した。一人残らず多年住みなれた,上野の"やま"から姿を消した。みな市民社会に溶けこんでいった。それぞれの"なりわい"を営んでいるにちがいない。
あおい部落が取り払いになると,文化会館の起工式の施行。文化会館の竣工直前,私は,そこで,一カ月間働いた。現場事務所の雑役だった。民衆の殿堂文化会館,その偉容をみ上げるとき,あおい部落の貧しい生活がもうろうとうかんできて感慨無量だった。
生活相談所は建物の老朽化で,お役人様方は本庁の民政局へ引きあげたときく。神吉寮は取りこわされた。跡地は公園として庶民の憩いの場によみがえった。聖水園では婦人保護寮を解散。精神障害児施設に転換した。時の流れにしたがって,姿が変わる。形が変わる。すべては無情迅速,はかないものである。

半世紀昔の上野の"やま"の状景がよみがえる。被災者の群が溢れ,喧々ごうごう,さながら修羅場。空襲で焼け出されても行き場がないのだ。"やま"には徳川ゆかりの古い墓地があった。彼らは墓石をひっくりかえし,廃材のよせ集めで,手作りの小屋がけに踏みきる。田舎の便所みたいな掘立小屋がひしめき,かさなりあうようにびっしりと墓地を埋めた。私は女の仲間四人で金を出しあい,からくも小屋暮しを手に入れた。雨つゆはしのげる。野宿にまさる。
町名は徳川にちなんであおい町とついた。物売り屋の開店。一杯のみ屋にはコップ酒歓迎の"のぼり"がはためき,一食三十円のバクハン(全麦)食堂が人気を呼んだ。青カン族など躍り上がって喜んだ。青カンは野宿の代名詞である。空は青いのと旅館の館。現代のホームレス。ほとんどがバタ屋だった。
女の青カンは三々五々のグループ連れだ。一人だと危険。暴漢に狙われやすい。旅行者らの恩恵。ゴミ箱あさり。ひと足のばせば神田のヤッチャ場(青物市場)。拾い手を待つように野菜屑がちらかり,いたみかけの果実類がごろごろ。リヤカーひきの臨時仕事にありつけば,日没までにひと稼ぎ。こわした箱の木っぱしと喰えるものを背負い篭に詰める。"やま"へ帰ると焚火をはじめる。"やま"は真昼のようだ。
焚火を囲んで彼らはごたごた煮の缶をみつめる。・・・芋類は特に喜ばれる。缶は鍋釜の代用。水はトイレの水道から。味噌はあおい町で十円も買えば充分。平等に分かちあって空腹をみたす。食後は憂さばらしと,慰めあいの四方山語りがはずむ。夜はふける。焚火は消える。灰をならしてコモをしく。からだをよせあい,ごろ寝である。暗闇が拡がる。ヤク売りが出没する。恐ろしい注射を打ちまくる。心身がぼろぼろになる。地獄よりの使者がくると,彼らはなけなしの金をはたいて,つかの間の陶酔をむさぼる。そういう彼らの心情が痛いほどわかる。・・・
ほったらかしでは人道にもとる。風致上の諸問題。上野公園は文化の中枢であり,首都観光の目玉でもある。役所では対策に腐心した。呼びかけの看板を立てる。説得の声をからす。夜陰に乗じて実力行使。寝込みを襲うのだ。彼らはにげまわる。ひっとらえて収容所へほうりこんでも脱走する。古巣へ戻ると,役所と収容所の残酷物語を吹聴。
"やま"には疎外感がない。男を拾う街娼も,浮浪者相手のじきパンも,私と同じモク拾いもバタヤもみな友だち。心が通じあうのだ。"やま"の住人にとって"やま"は最高の生きる場であり,こんな住みよいところはどこにもあるまい。ただ住所不定では医者の治療を受けられない。・・・

なお,葵会については2006年7月17日のエントリーでも触れています。