昭和天皇が戦後,松本治一郎に不快感を持ったことについて

1945年11月30日に,裕仁は侍従次長を呼んで,当時の衆議院議員松本治一郎(日本社会党,後に参議院副議長にも就任)が不敬でけしからんと言ったとか。

松本治一郎を注視した昭和天皇
--snip--1945年11月30日のことであった。皇居では昭和天皇が側近の侍従次長木下道雄を呼び寄せてつぎのように話し、指示をあたえた。
「今日の午後、宮内大臣の石渡(荘太郎)が司法大臣(岩田宙造)から聞いたところでは、傍受した短波放送によれば、過日の衆議院の開院式に行ったときに、松本議員が陛下に敬礼していなかったと伝えていたとのことであった。朕は気付かなかったが、このような事実があったか、どうかを調査せよ」と。
松本議員とは松本治一郎、その松本が27日の衆議院開院式で「敬礼」をしなかったというのである。このとき、天皇はこれはけしからんことだ。「不敬罪」にあたるとくりかえしたようだ。
国内の治安にあたる内務省が機能不全におちいったこのとき、情報蒐集にあたっていたのは、司法省だったが、松本の動向に注意をはらっていたことがわかる。いわば、極度に権力が失われた事態のなかで、天皇をふくめて、権力中枢は松本の動きを注視し、天皇は怒りのまなざしを向けた。
夜に入って天皇は再び木下を呼びだした。さっき木下に「不敬」、「不敬」と言い立てたのが気になったのである。
おそらく、これは政治にかかわっていると占領軍に受けとめられ不利を招きかねないと考えたのであろう。
「開院式に不敬ありたりとの短波通信の件は、通信の真偽を知らんとするに外ならず。不敬とがめをするにあらざるをもって、廉立ちたる調査をせぬ様注意せよ」とあらためて付け加えたのである。松本が開院式で敬礼しなかったか、どうかはつまびらかではない。
この事実は1989年、雑誌『文藝春秋』5月号に発表された木下道雄の『側近日誌』によって明るみに出されたのであるが、敗戦直後の時期における天皇の松本にたいする緊張した視線ははっきりと映しだされている。

いわゆるカニの横ばい事件1948年1月21日の前のことである。
松本治一郎公職追放吉田茂の策略ということが通説となっているが,実は裕仁こそが松本追放の主役でなかったかという見方も一部でされているゆえんである。
※出典を記載しておりませんでした。追記します。師岡佑行氏による『反天皇制は部落解放の核心である―灘本昌久「部落解放に反天皇制は無用」を批判する―』 (Memento,13号,京都部落問題研究資料センター)

全然関係ないが,今週の宮内省職員募集について

http://www.kunaicho.go.jp/15/d15-04.html
宮内庁管理部車馬(しゃば)課主馬(しゅめい)班技能職員(馬匹管理) 一名
ちなみに採用後の職務は,
乗用馬及び輓用馬の飼育,調教及び装蹄
儀装馬車の管理及び運行(儀装馬車は,外国特命全権大使信任状捧呈式,皇室行事等の際に使用される)
古式馬術の保存(母衣引(ほろひき)及び打毬(だきゅう))
馬術研修(採用後,指名により馬術研修員として乗馬技術,馬車の御者技術,乗用馬及び輓用馬の調教技術等を複数年に渡って習得する。)
とのことです。
宮内庁病院看護師 一名
採用後の職務は宮内庁病院における看護診療介助。
宮内庁管理部車馬課自動車班技能職員(自動車運転及び管理) 一名
採用後の職務は,自動車の運転,自動車の保守及び点検管理,自動車及び部品等の購入及び管理,自動車用油脂類の管理。
○臨時事務補佐員 四名
勤務日数は計20日程度の非常勤職員(日々雇用)。
仕事内容は,パソコンを用いたデータ入力作業等(一太郎およびExcel使用)。但し,日本の古代から近現代にかけての典籍・古文書等の整理並びに読解能力のある方を求むとのこと。