蟻の街の奇蹟&葵会@凌雲院跡地

松居桃樓の『蟻の街の奇蹟』は,蟻の街のマリアこと北原怜子(さとこ)さんの話などでも一時期有名になった本である(1953年1月20日,国土社発行)。私自身,小学校の3年生の頃だったか,たしか『少年少女・世界のノンフィクション 9 世界を驚かした10の努力』という本でアリのまちのマリア北原さんやゼノさんのことを読み,よく憶えている話の一つであった。
『蟻の街の奇跡』は,ある意味,「途中」の本ではある。この本の続編的なものとして,次の本がある。

アリの町のマリア

アリの町のマリア 北原怜子アリの町のマリア 北原怜子
松居 桃楼

春秋社 1998-09

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さて,『蟻の街の奇蹟』を読んでいると,蟻の街の松居さんたちと上野公園内葵町(または葵会)の連帯の話も出てくる。葵町というのは,上野公園の国立科学博物館の隣,寛永寺凌雲院墓地に住んでいた集団のことである。また,この凌雲院は,今の,国立西洋美術館から東部公園緑地事務所,東京文化会館までかかるぐらいの広さだった。なお,凌雲院の建物の一部はhttp://www.city.abiko.chiba.jp/data/information/news/shyoukou/sanpogaido/kousu5.htmにあるように,我孫子市龍泉寺に移されている。
以下,『蟻の街の奇蹟』から葵会のことを引用(蟻の街については,またそのうちに)。

昭和25年の春頃は,大きな五輪の塔のかげに,こわれたビール箱や蜜柑箱の板切れを壁にして,焼けトタンの屋根を葺いた一坪か二坪の小屋が,チラリホラリとある程度だったが,9月頃には,人口70名となり,26年の1月には200名以上になった。

蟻の街とは正反対の性格の部落でパンパンとそのヒモ(情夫),バイニン(ヤミの仲介業者),ヤミの寿司売り,日雇人夫(ただし未登録者),バタヤ,それに浮浪の孤児の群が,自由勝手に住みついていて,ほとんど全部がヒロポン患者というすごいところだ。『眠り屋』に『天国屋』という,コモ一枚貸して一泊30円の旅館が2軒,山盛りの銀めし30円,おかず10円,汁5円の食堂が2軒,タバコ1本1円,木炭一山10円,砂糖1サジ5円だのと希望次第でどんなにでも切り売りをしてくれる雑貨店と,駄菓子屋が各1軒ずつあって,一応『町』のタイプをなしているが,強い者勝ちで不法占拠をやった,アメリカ西部の新開地みたいなところだから暴力にものをいわせるボスはいるが,民主的な町会をつくりたくとも,町会費の出してがないからどうにもならない。

ゼノさんも,この町が出来た頃から材木を贈るなど支援をし,また蟻の街からもバタ車,便所用の木材などが贈られている。1951年1月27日には葵会の発会式が行われた。この葵は,凌雲寺墓地が徳川家のものであることから,徳川家の紋の葵にちなんだとともに,語幹が「蟻の街」のアリに似ていることからだという。また。1951年8月10日現在の,東京都民政局の仮小屋生活者実態調査では114世帯,346人となっているが,おそらく夜間人口は700から800人,通学適齢児童が100人は突破していただろうという。凌雲院跡地にはそのころ,科学博物館も関心を持っていたようだが,最終的には松方コレクションをおさめる西洋美術館の敷地となった。ただ,現公園事務所となっている一角のみは,平成のはじめごろまで,飯屋や長屋が残っていた。これが葵会の流れを引くものかどうかは不明。

さて,うってかわって,東京都行政による「浮浪者対策」問題。1952年1月29日に,蟻の会,葵会,厚生会,明和会,お茶の水の5つの「谷間」の代表と畑市次郎東京都民生局長の会見が,上野公園の花山亭で行われた。懇談の跡,葵町を見学。畑市次郎は物わかりがよさそうに生活問題について話していたとのこと。 ところが畑は,その翌日には都庁内の記者クラブに「仮小屋取り払いの問題は,彼らに関係なく予定通り断行する」と発言。3月3日には,隅田公園のバタヤ部落,新生会が畑の号令のもと,焼き討ちされた。具体的には畑自ら陣頭にたち,公園かと民生局の役人が小屋からひとを呼び出し,トラックへ追い上げるとともに,小屋に火を放つ。まだ荷物もとり出さぬうちから。別府的が浜の焼き討ちやしかりと。さらに畑は,8月には山下橋,新幸橋の国鉄ガード下バタヤ部落を一掃。

 松居は続けて書く。「ユダヤ人たちは,キリストを磔にしたが,聖書を焼き払うことは出来なかった。蟻の会は,現代人に“幸いなるかな貧しき人々”と教える。この蟻の会を焼き払おうとしている畑民生局長は現代のピラトである。畑ら民生局,刑務所,警察は国民失業強制所である。バタヤがせっかく自らの力で天国を築きかけると,民生局がそれを焼き払い強制的に失業させる。そうすると飯が食えないからつい掻っ払いをする。警察が待ってましたと捕まえ,刑務所に送る。一年後にはその人間は“完全失業”をして社会に送り出される。バタヤ部落を犯罪の温床と言うが,本当の犯罪の温床は刑務所と警察と民生局なんだ。蟻の街は焼かれても,蟻の街があったという事実だけはできるだけ多くの人の心の中にとどめておいてもらいたい」と。

「蟻の会」について少しだけ

蟻の町の場所は,もともと東京都が恩賜財団同胞援護会に依頼して,住宅を建てるための基盤整備を行おうとしたところだった。同胞援護会は「司法保護団体」新日本学院に下請けをさせ,言問橋と山谷堀間の公園敷地(旧高射砲陣地)に大製材工場と付属する数棟の建物を新築したが,新日本学院はそのまま資金が枯渇してしまい,同胞援護会が建物を差し押さえ,顧問弁護士の藤田元治氏に管理を一任していた。
とはいえ,残土の間,夏草に埋もれた数万坪の管理は困難で,実際多くの浮浪者が利用する状態となる。藤田氏は葛西の漁師水門屋に管理を依頼。水門屋は知り合いの釣師小関氏を藤田氏に推薦。小関氏は近くに住んでいた小沢氏も巻き込み,小沢氏がバタヤを,さらには自主管理の仕切場を始めた。この仕切場を慕って,バタヤが集まってきた。
小沢求氏は1950年1月,同胞援護会顧問弁護士の藤田元治氏のところを訪ねる。要件は二つ,一つはキティ台風で半壊した建物をバタヤで自主管理経営したいと,もう一つは団体の趣意書を作り,名付け親になってほしいということだったという。
この藤田氏のところに書生としていた松居氏が,氏の著書「蟻の町の奇蹟」によると,会の実際の名付け親であり,趣意書を書いたとのこと。以下松居桃樓氏による趣意書。1950年のことです。

「蟻の会」設立について

 蟻の会とは,「人間の屑」とさげすまれている浮浪者同志で,お互いに励ましあいつつ,自力で更生してゆこうとする会です。
 蟻はあんなに小さなくせに,働きもので,ねばり強く,しかも夏の間にしっかり蓄えておいて,冬になるとあたたかい巣のなかにこもってらくらくと暮らします。それにくらべると,一日雨が降ってもすぐ飢えなければならないルンペンの生活は,蟻以下ではありませんか。
 昔,二宮尊徳は,大洪水で田畠も家財もことごとく流されたときに,「天地開闢のころ,なんの経験も道具もなしで,はじめて畑をつくった祖先のことを思えば,再起するのはなんでもない」といいました。
 われわれも裸一貫のルンペンになりさがったとはいうものの,蟻の生活のことを思えば,自分たち自身の更生どころか,祖国日本の更生だってできないはずはないと信じます。われわれは蟻のように働き,蟻のように蓄えて,一日も早く協同の楽しい「蟻の家」をもてるようになろうと誓いあいました。
 「蟻の家」は廃品の集荷所と倉庫を中心に,お互いの宿泊所や食堂をつくり,衛生設備を完備し,いろいろの娯楽機関を設け,そのうえ,職業斡旋を行ったり,身の上相談にも応じたいと思っています。
 現在,東京都には,いわゆるバタヤ(屑拾い)が十五万人いるそうです。そして,この人々の群り集まるところは,常に犯罪の巣であり,悪疫の温床として嫌われ怖れられていますが,われわれはみずから模範となって,この「蟻の運動」を正しく繰りひろげながら,必ず近き将来に東京中のバタヤを蟻の会の会員として,十五万のルンペンがことごとく,楽しい「蟻の家」に住めるようにせずにはおかぬと,心に誓いあっております。
 こういう考え方は,あまり気狂いじみた夢だとお思いになる方もあるでしょう。
 しかし,もし五百万の東京都民全体が,一日に古新聞一枚ずつ,この「蟻の運動」に提供してくださるだけでも,一年で何億という金額になるのです。ですから,皆さんが,ご不用になった紙屑,ぼろ屑,空罐,空びん,ガラス屑,金物屑,古雑誌,古新聞,板屑,古下駄,残飯の類を,この「蟻の運動」を助けるために,学校や職場でまとめてくださるだけでも,東京都下十五万の浮浪者は必ず更生できるのです。
 そして,東京都はまたたく間に,犯罪のない,悪疫の心配のない,美しい町になります。
 繰り返して申しますが,われわれはこの運動の名によって一銭の寄附たりともおねだりする気持ちはありません。ただ皆さんが廃品としてお捨てになった品を,拾わせていただき,それを整理し更生することによって,廃品の更生だけでなく,社会から見捨てられた人材を更生し,世界の劣等国に転落した祖国を更生したいのです。
 この運動は,皆さんが,もてあましておいでになる街の塵芥を清掃するとともに,犯罪の巣や悪疫の温床をも清掃する運動であります。
 どうか,われわれがいやしい浮浪者なるがゆえに,貧しい屑拾いなるがゆえにさげすまれることなく,われわれの夢が一日も早く実現されるよう,ご賛同ご協力くださることを切にお願い申し上げる次第です。

現在から見ると,不満な言い回しはたくさんあるけれど。。。
ちなみに組織としての財務状況を見ると,1950年1月21日から51年1月31日までの約1年間の損益計算書では,利益の部が417万2116円20銭。損失の部が337万5242円10銭。1月31日現在の貸借対照表も記載されるなど,意外と(というと失礼だが)しっかりとした経営を行っている。そのころ,暴力団等が仕切るボッタクリの仕切場も多かったようであるから,自主管理の蟻の会に集結したいというバタヤも多かったんだろうと思う。
蟻の町のその後については,上に掲げた「アリの町のマリア」に詳しい。http://www.tokyo.catholic.jp/text/shokyoku/shiomi.htmカトリック東京大司教区のページ),http://www016.upp.so-net.ne.jp/koiwa-iwao/shiomi/shiomi.htmlカトリック潮見教会),http://www.catholic-ichikawa.com/contents3.htmlカトリック市川教会)にも情報があります。
元々の蟻の町の場所からの撤去を都から求められ,新たに潮見の地を購入(都からの払い下げ)して,移転。
そして,その後,「繁華街から遠く廃品回収には難しかったことや1960年代以降の高度経済成長の結果、蟻の会の人々は少しずつこの地を離れていきました。今残るのは教会の南側にある「蟻の会事務所」の建物だけです。東京教区はかつての蟻の会の方々の理解を得て、ここを「難民のための一時宿泊所」として活用しようとしています。」(潮見教会ページより)
先進的,実践的な社会運動の一例である。

参考文献等 http://www.kingendai.com/toshiroudou1-c.htm

2008年11月8日追記 あおい町

戦後,上野公園にあった葵会(あおい町)について,2008年10月12日のエントリーで『輝くわが最晩年―老人アパートの扉を開ければ』(雫石とみ著)の記述を紹介しています。

2009年11月20日追記 葵会と竹の台会館

元エントリーに,次のように書いておりました。

1951年1月27日には葵会の発会式が行われた。この葵は,凌雲寺墓地が徳川家のものであることから,徳川家の紋の葵にちなんだとともに,語幹が「蟻の街」のアリに似ていることからだという。また。1951年8月10日現在の,東京都民政局の仮小屋生活者実態調査では114世帯,346人となっているが,おそらく夜間人口は700から800人,通学適齢児童が100人は突破していただろうという。凌雲院跡地にはそのころ,科学博物館も関心を持っていたようだが,最終的には松方コレクションをおさめる西洋美術館の敷地となった。ただ,現公園事務所となっている一角のみは,平成のはじめごろまで,飯屋や長屋が残っていた。これが葵会の流れを引くものかどうかは不明。

誰か昭和を想わざる 昭和ラプソディというページの昭和31年3月31日の項を見ますと,次のように書いてあります(出典は不明ですが,書きぶりからして,おそらく当時の新聞か雑誌から引かれたものかと思われます)。

<東京・上野>消えるスラム葵部落
昭和31年3/31早朝、立ち退き期限日となった上野の寛永寺境内にあったスラム北葵部落の住民が自発的に竹の台会館へと引っ越した。北葵部落とは昭和 25年12月から存在していた葵部落の一部だった。この日、立ち退いたのは北葵部落でも葵会の面々で、残る130世帯512人の弥生会の面々は6/7午前6時になってテントへと引越した。南葵部落の231世帯585人は昭和32年9/20までに自主的に退去し、ここに上野戦後最大のスラム葵部落の歴史は閉じた。

葵部落と言われた中に,南葵部落と北葵部落がある。その北葵部落の住民のうち,葵会の住民が竹の台会館へ引っ越したと言うことですね。ちなみに,竹の台会館の建物は平成はじめまで上野公園の一角に残っていたようです。
それにしても,この「誰か昭和を想わざる」のサイト。どなたが纏めておられるのか。ものすごい情報量です。