国家権力による控訴,日本はどこへ。

アムネスティが良心の囚人として--戦後の日本では初めてだと思うが,--認定している立川の反戦ビラをまいて拘留,起訴された人々。地裁では逮捕,拘留,起訴が,国家権力の乱用と指弾されていたが,恥ずかしくもなく,国検察は控訴の予定という。
この恥ずべき現統治システムを世界人民に明らかにしたい。
沖縄で米国軍人による犯罪が起きている。沖縄での主権がどこにあるかはhttp://d.hatena.ne.jp/ironsand/20041211#p3でも触れたことではある。
米国軍人の引き渡しなど望むべきも無い。
ただ,その理由の一つとして,日本の公安のあまりにも恣意的な運用,拘留人に対する人権弾圧の状況が米国からあげられている。
今回のビラ蒔きが弾圧される状況,アムネスティから“恥ずべき統治システム”と指弾される状況では,主権を取り戻すこともできない。
沖縄で,人々が,米軍に,そして日本の統治システムに抑圧されている状況。どこからいったい手をつければいいのやら。

パラダイムシフト

80年代,喧騒されたことば「パラダイムシフト」。
マルクス主義への訣別でもあったが,むしろ生産性一辺倒の文化への訣別であったであろう。下部構造によって決まってくるという上部構造自体の価値の見直しでもあった。
沖縄ブーム,韓流ブームは,いまこそブームになっているが,1970年代,いや60年代,50年代より前から萌芽はあり,社会運動,学生運動の中で,サブカルチャーそしてメインストリームへ一部入ってきていた。
メインストリームへ入ったのは,まさに80年代のパラダイムシフトだろう。サブ,またはアンダーカルチャーからメインへ。
でも,結局は資本の論理のパラダイム変換。消費される文化としての変換であったように思う。
実際,やまとんちゅーにとっての沖縄のイメージはどんなものか。人権をおびやかされる生活への視座はなく,またヤンバルの森に隣接していきてきた生活への視座もなく,ただ消費しやすい文化への言及のみ。
結局,このパラダイムシフトは,資本の論理に巻き込まれていたに過ぎないと思う。生活している人間の文化と,外部からカンパニアしたいと思った人間(むかしヒッピーと言われた人々もいたが)の文化が,年とともに資本の論理に表れてきていた。それは必ずしも本人たちの文化が変化したというわけではなく(もちろん変化しても来ているのだが),むしろ記号が流通する中でそう見えるものであるが。

この消費状況を見てみると
いま思うに,やはり下部構造が決定する部分は大きいのかもしれない。というよりむしろ確信しているのだが。

そして,いま,ついに,日本にもアムネスティの良心の囚人が出現した。また,ついに,国民保護法の成立に表れるように,市場経済よりも統治権力が,歯を剥いてきた今,私たちは1980年代とは異なる新たなパラダイムシフトの時代に来ているように思う。
いまから始まる新たなパラダイムシフトは,命を守る,命が宝というところからスタートするものではないか。